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どんどん真似していいよ、でもね。

どんどん真似していいよ、でもね。

 

 

 

数年前からとどどき見聞きしてどうしようかと思っていることの1つにARATA HOUSEの服のデザインを真似していますとか、明らかに真似とか、パクリとかのこと。シンプルな答えは「どんどん真似していいよ。」真似から物事が始まるからどんどん真似っ子して、どんどんその服をきる生き物の事を考えてね。でもね私たちも所詮、過去の製作者の真似っ子です。

 

 

 

でも世間には人をいい気分にさせてくれる真似と、えぇぇーその真似かた苦手という人がいる。いい気分にさせてくれる人は堂々と連絡をくれる。もちろん「はい♪」と答える、何と言っても私たちもどこかで誰かの真似をしている可能性があるから連絡をくれる人には敬服を感じる。

 

 

 

一方ただ真似ている人はにはこう感じる「そんなん暮らし方でいいの?」と。なぜそう感じるかと言ういうと本来愛犬との暮らしを豊かにする為に始めた行為(モノづくり)が愛犬を魅力を殺していないのと?

 

 

 

人は生まれた瞬間から真似が始まる、だれもそれを毛嫌いしない、それどころかその行為を愛する。真似とは本来、真似られる側にとって嬉しい行為であり。幸せであるのに時として周りを不幸にする人がいる。

 

 

 

なぜ?今日に真似の話を書いているのか。それは早く気がついた方がいいから。真似ているだけの行為がいつも間(間とは自分の大切な時間)にか自分自身のいい部分を殺しているという事を。モノづくりはどんなに真似られても作る人の個性が出るし、それを選ぶ人もセンスが問われる。「あっ!これどこかのにそっくりだけど、こっちのほうが安いで物事を判断する人がいる。」気持ちはわかるけどその行動を物作りする人が作り出すと、その人の感情は多分、無茶苦茶。

 

 

 

俺はそんな人は本当に大切にしない。本当に大切な人は当たり前だけど価値で(今までの実績、容姿、稼ぎ、持ち物)で判断しない、価値よりもその人らしさが俺の判断基準です。らしさ。

 

 

 

昔々、そう19歳ぐらいの頃に、とてもセンスのある人に言われたことが今でも印象の中に残っている「目の前にいる人が自分を移す鏡」と。

 

 

 

その瞬間に俺が笑っていなければ鏡の中の俺ももちろん笑っていない、怒っていれば鏡の中も怒っている。それも時としては感じ取れなければならない事だがそれから俺も少しだけ生きて「鏡がそもそも曇っていれば、本当の俺を移す事はできない。」「鏡が割れていては本当の俺はみえない」そう!そもそも自分自身を映し出す相手を、間違えると自分もくすむ、ようは自分が付き合う相手のこと。本当に綺麗なのは自分自身ではない鏡が綺麗なだけか演じてくれている。本当に素晴らしい鏡は少しぐらいくすんだ人でも綺麗に見せてくれる。そして変えてくれる。

 

 

 

鏡は角度がとても重要で、例えば上と下とで上の方が前のめりなら、人が鏡の前に立つと短足に見え、上よりも下が前に前に出ているとスタイルが綺麗に見え、鏡の前の人は嬉しくなる。どちらも自分なのに鏡に気持ちを左右される。ほとんどの人間なんて想像力や創作力がない、だから本来の自分の姿を性格とらることもできない。

 

 

 

どっちみち判断できないなら自分自身が不細工なら、鏡に頼ってみるのいい、その方が気持ちがいい。真似るならとことん、真似た方が気持ちがいい。もし鏡が曇っていると気がつたら俺なら鏡を磨いてみる。もし俺に磨く技術がないなら先ずはそこから始める、